秋が来るとき
Quand vient l’automne/WHEN FALL IS COMING/監督:フランソワ・オゾン/2024年/フランス
試写で鑑賞。公開は2025年5月30日です。
あらすじ:キノコ中毒になります。
※ネタバレはありません。
老後を田舎で過ごしているミシェルは、パリからやってきた娘ヴァレリーと孫ルカに昼食をふるまいます。ところが、食事にうっかり毒キノコが混ざっていたため、ヴァレリーが救急搬送されてしまうことに。ミシェルの友人マリ=クロードは、息子ヴァンサンが刑務所から出所したばかり。仕事がないヴァンサンに、ミシェルは畑仕事を依頼します。
過去のことをいつまでも引きずってはいられません。他の人の人生に対してあれこれ言うのも決して褒められたことではありません。けれど人は噂話が好きだし、他人の不幸を肴に飲む酒が美味い人もいるでしょう。
本来なら、ミシェルが過去に仕方なく行なったことのせいで、ルカまで巻き込まれる必要はないはずです。ヴァンサンも、「良かれと思って」とはいえ、ミシェルとヴァレリーの関係に口を挟むべきではなかったとは思います。ただ、ヴァンサンの行動をミシェルが責めることはありませんでした。
この映画は最初に、マグダラのマリアについて語られます。2025年2月1日に教皇フランシスコが行った謁見のときの要約があったので貼ります。
教皇はこの日、「希望するとは、向き直ること。マグダラのマリア」をタイトルに講話された。
(略)
ヨハネ福音書が語るマグダラのマリアと復活されたイエスとの出会いは、わたしたちに考察を与えるものである。そこでは何度もマリアは「振り向いて」いる。最初、マリアは泣きながら墓の中を見ていた。この後、彼女は振り返る。復活されたイエスは死の側でなく、いのちの側におられた。マリアはそこにいた人を普段見かける人の一人だと思ったかもしれない。そして、福音書は、イエスがマリアの名を呼んだ時、マリアが再び振り向いたことを記している。
こうしてマグダラのマリアの希望はふくらんだ。今はもう墓を最初のようには見ていない。今や彼女が涙を乾かせるのは、師しか呼べない形で、自分の名前が呼ばれるのを聞いたからである。古い世界はまだそこにあるように見えても、もうそれは存在しない。
聖書を人生の基盤としていない私にとっては、こうして断片的に関係のあることを読んで、なるほどね……なんて言うくらいしかできないわけですが、偶然とはいえ「古い世界はまだそこにあるように見えても、もうそれは存在しない」というのがものすごく映画の内容に合致しているなと思います。