デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション 前章/あの日、私たちの日常は

SF
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デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション 前章

監督:黒川智之/2024年/日本

マスコミ試写で鑑賞。2024年3月22日(金)前章、5月24日(金)後章 全国公開。原作未読です。

あらすじ:3年で日常になりました。

ネタバレはありません。

3年前、巨大な未知の飛行物体が現れました。そのまま世界は終わるかに見えたのですが、上空に留まった飛行物体は日常に溶け込んでいきます。女子高生の小山門出(声:幾田りら)と中川凰蘭(声:あの)は、仲間たちとともに普通の生活を送っていました。


門出と凰蘭には他に3人の仲間がおり、放課後に集まって遊んでいるんですね。この物語が何を描いているのか、掴むのにだいぶ時間がかかってしまいました。卒業式あたりまでかかったかな。大きな物語の前章なので、現代パートでキャラクターがどういう人物なのかとか世界観の説明などに時間をかけるのはよく承知しているものの、このままの感じでずっと物語が続くのかと思うと少し私には合わないなと思っていました。

観終わってすぐ調べたのが、原作の漫画がいつ描かれたものか、です。新型コロナウイルス感染症が流行した時期と被っているのかなと思って。そうしたら、2014年〜2022年、とあって少しびっくりしましたね。門出の母親の行動などが、パンデミックのときに多く見られた人びとの行動に似ていたので……。

私は浅野いにおの漫画を読んだことはないし、どういう作風の人かも良くは知らないのですが、人が、自分で解決できない大きな困難と向かったときにどういう行動を取るのかを端的に表現できる人なんだなと思いました。新型コロナウイルス感染症だけでなく、オイルショックのときにも(私も浅野いにおも生まれていませんが)、人びとがパニックになって極端な行動に走るというのがあったので、そういった諸々の出来事について冷静な目で調べて描かれたものなのだなと。浅野いにおが極端なものの見方をしていたら、この映画のような表現にはならないと思います。

なんとなく物語について掴んだところで回想シーンに入っていき、門出と凰蘭の小学生時代が描かれます。私には、小学生時代のエピソードのほうが興味深かったですね。正義とはなにか、悪とはなにか。弱者を守るために行動した結果について、責任を取るか否か。正しさとはどこにあるのか。

ちょうど先日、こういうことを言っていました(このあとの文章は映画にはあんまり関係ないかもです)。


これに対してけっこういろいろ反応があり(途中で会話をミュートして、リプも引用も届かないようにしちゃったのですが)、「傍観者も悪に加担している」とか言われていたみたいでイライラしました。で、


まあ、ブチ切れてしまったんですよね……。ポストが長くて途中で途切れているので、↓に続きを書きます。

SNS上での振る舞いがその人のすべてか? そうではないと、わかっているはずなのに何故そうなるんだ。
「すべての人は自分の正義のために声を上げて戦うべき」という考えがあってのことだろうが、それは同調圧力の一種ではないのか。
私が少し強めの言葉を使うと、スペースなどで「怒ってたね〜ww」とからかわれるので、それを避けているというのもある。この投稿もきっとからかわれる。

どうしたら良かったんですか。

人が亡くなったときの弔い方には人それぞれのやり方があると思っていて、私は、SNSではそのことに触れないようにしています。自分にとって大切な人だったら泣いたりもします。でもそれをわざわざSNSで書く必要はないと思っているので書かないだけです。もちろん他の人たちが、故人を想ってなにかを書くことについて、否定しているわけではありません。あ、訃報といえば、声の出演でTARAKOさんがクレジットされています。私が試写状を受け取ったときにはご存命だったため、エンドロール後になにかメッセージなどが書かれているということはなかったんですけど、上映時にはもしかしたら、あるかもしれませんね。

話がすごくそれてしまいました。正義とはなにか、悪とはなにか、について、話を戻します。

この映画にはデモのシーンがあるし、門出の母親の極端とも見える行動だったり、栗原キホ(声:種﨑敦美)の彼氏である小比類巻健一(声:内山昂輝)が、ネットの情報を鵜呑みにして「ネットでは賢い人たちがみんなこう言ってる」とか言い出したときなどに、あー、と思ったんです。

私が、世の中の問題についてなんにもSNSで発信せず沈黙するのは、何もしていないこととイコールではありません。例えば、デモに参加してもSNSには書かないです。寄付をしても、選挙に行っても、書かないです。ロシアのウクライナ侵攻が始まったとき、アクセサリーの売上げから一部を寄付したのを覚えていらっしゃる方もいるかとは思います、あのときはSNSに書きましたが、あのあとに何かをやったかどうかは書いていないです。私のこういった考え方は、さきに書いた訃報についてと同じで、わざわざ書く必要はないと判断しているからになります。

先日のアカデミー賞授賞式において、アジア人差別をしているように見える行動をとった俳優についても、私は黙っていました。でも、自分ではあんまり意識していなかったことですが、このブログでは政治や差別の話をすることもあるんですよね。これは相互の方に指摘されて「あっそうだった」って思い出したくらいには忘れていました。見ている人は見てくれているんだなと思って嬉しかったです。同時に気恥ずかしさもありました。見ていていくれてありがとうございます。照れますね。

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