塔の上のラプンツェル/少女たちよ、母の呪縛から逃れなさい。

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塔の上のラプンツェル

Tangled/監督:バイロン・ハワード、ネイサン・グレノ/2010年/アメリカ

こちらの記事は、2011年に書いた 塔の上のラプンツェル/ステージママと、閉じ込められた娘。 | 映画感想 * FRAGILE を一部加筆修正し転載したものです。何度かネガティブな反応をいただいた感想です。こういう見方もあるよ程度に読んでもらえたらと思います。なお、ゴーテルは継母でも実母でもないという意見もあると思いますが、童話において実母ではあまりに酷すぎるために継母とされている例はあると思います。

日本語吹き替え版の上映が多く、字幕2Dで見たかったわたしは映画館に見に行こうか迷っているうちにすっかり忘れていた『塔の上のラプンツェル』。アップルTVに字幕版が入ったので見ました。

あらすじ:塔に閉じ込められた少女。

ネタバレしています。注意書きはありません。

年を取り醜くなっていくのは誰でも怖いことです。わたしだってそうよ。毎日毎日恐れていますよ。だからね、最初、ゴーテル(声:ドナ・マーフィ)が気の毒だったんです。魔法の花を奪われ(独り占めしたとか言われてますけれど、見つけたのは彼女だし彼女に所有権があってもおかしくないですからね)、取り戻そうにもうまくいかず、”しかたなく” ラプンツェル(声:マンディ・ムーア)をさらったわけです。

ですが、彼女とラプンツェルとのやりとりを見ていると、あれ、これはモラルハラスメントじゃないですか。

閉鎖的な空間で起こっているため他者が気づけない。愛情や躾、教育の名の下に行われる。被害者が加害者をかばってしまう。完全にモラハラです。ゴーテルは、ラプンツェルを自分の支配下に置いています。常に自分のほうが上だと圧力をかけているわけです。

アメリカには、幼い娘を美少女コンテストに出して競わせるものすごく気持ち悪い母親が多くいます。

なぜ母親は、娘をステージに立たせ続けるのか。彼女たちステージママは、美しく化粧をし着飾ってステージに立ってくれる娘がいなければ、存在できません。誇らしげに笑顔をふりまきながら歌う娘の姿に、自分を重ねているわけです。若く美しかった自分自身の姿がそこにある、失われた少女時代を娘に重ねあわせ、娘が美しくあることで自分も美しいのだと錯覚する。自分が美しくあるためには、娘が必要なわけです。ゴーテルは、まさにこれなんです。

ラプンツェルは人前には出ませんでしたから、ステージママじゃないと思われるかもしれませんが、ラプンツェルが歌わなければゴーテルは若さを保てないわけで、そこが重要なのです。ラプンツェルが歌わずとも魔力を行使できるのであれば、わたしはゴーテルをステージママと言わず、もっとシンプルに毒親の話だと思ったでしょう。塔に閉じ込められているというのはラプンツェルの精神状態を表わしています。

ゴーテルは、ラプンツェルを褒めない。彼女が最も愛しているはずのラプンツェルの髪すらも、褒めないんですね。興味があるのは自分自身の若さだけであって、ラプンツェルの人格やらなんやらはどうでもいい。ですからゴーテルは、ラプンツェルの成長を認めないのです。「誕生日は去年終わった」と言うんです。何気ないセリフですけれど、これは、ゴーテル自身が年を取りたくないと思っているということで、たぶん彼女は、自分の年なんかもうわからないんです。というか、わかりたくない。ラプンツェルが年をとって死んでしまえば、髪の毛の魔力も失われてしまう。ラプンツェルに毎年誕生日が訪れ成長していくのは、ゴーテルが老化していくのと同じことなんですね。

一方のラプンツェルは、自分にはなんの魅力もなく力もないと思い込まされ、母親の言いなりになることだけが生きるすべてでした。

夢にまで見た塔の外へ出られたというのに、彼女ははしゃいだり落ち込んだりを繰り返します。母親と外の世界との間で揺れ動く彼女の姿は、終盤まで数回見られます。どれだけひどい虐待を受けてきても、それでもまだ母親に依存する気持ちがある。おそらく塔の中で今までも何度も繰り返されてきた、母親への憎しみと愛情との葛藤が見られるのです。彼女が一貫して外へ出たいという気持ちをもっていれば、悩むことなく外の世界を楽しんだでしょう。

彼女は、母親の顔色をうかがいながら発言してきたため、モゴモゴしゃべるようになってしまっています。フリン(声:ザッカリー・リーヴァイ)や他の人たちにはハキハキと話せるのに、母親にだけは自分の意見を言えないんですね。そしてなにか失敗があったときには、すべての責任が自分にあると思ってしまうのです。

美少女コンテストで優勝できなかった少女は、その失敗を他人のせいにできるでしょうか。

ステージに立っていたのは母親ではなく自分です。選ばれなかったのは母親ではなく自分です。自分がちゃんとしていなかったから、選ばれなかったんです。だとしたら、少女が自分を責めてしまう、失敗の責任を負うのは自然な感情のように思います。

ラプンツェルも、窮地に陥ったとき彼女自身を責めます。わたしが外に出たから危険にさらされてしまった、わたしのせいだと。自分が犠牲になれば愛する者を救える、自分は閉じ込められ人生を奪われてもいいからあの人だけは助けてくださいと言うのです。これは美しい自己犠牲の精神ではなく、そのように躾けられてしまった不幸というべきでしょう。

カメレオンのパスカルがまったく発話せず物語上なんの活躍も見せないのは、ラプンツェルの心をただ受け止めるだけのキャラクターだからです。彼がラプンツェルにアドバイスなどをしてしまうと、彼女が塔の中に留まっていた理由がなくなってしまう。彼は外の世界とラプンツェルを繋ぐ者ではないのです。だから、ラプンツェルが塔を出るまで、彼も塔の外にいるシーンはありません。体の色を変えることで感情表現をしますが、それもラプンツェルの感情を代弁してではなく、彼自身の感情表現です。

無数のランタンが空に舞い上がるシーンは、ラプンツェルの魂の解放を表わしています。この時点で彼女の願いは叶えられ、もう思い残すことは何もないのです。

ラプンツェルは、塔の中でゴーテルと対決します。今まで自分を縛り付けてきた者と、今まで自分が閉じ込められてきた場所で戦うのです。真の開放と新しい人生への道を得るには、自分を縛り付けてきた元凶と立ち向かわねばなりません。もちろん、ディズニー・ヴィランズの多くが「高いところから転落死する」最期を遂げるため、その伝統に則ってということも、あると思います。

フリンがチャラいのは、世の中を知り尽くしている、現実世界の象徴なんですね。彼のキャラクターは非常に現代的で、2010年の少女たちへ捧げる映画であることを意味するでしょう。さらに、文字通り白馬に乗って登場する王子様ですからたまりません。

いや、泥棒でしょ、王子様じゃないよ、っていうのは、これはね王子様であってはいけないんですね。王子様というのは生まれで決まるもので、後ろに家系があるわけです。自由ではないんですね。ラプンツェルは家を飛び出していくキャラクターですから、その手伝いをする人物の後ろ盾として家があるとおかしいのです。

ラプンツェルが彼女の歌でフリンを癒すのは、今まで自分を縛り付けてきた者にしか使わなかった力を外の世界の者に使う、最後の魔力をもって彼女が本当に解放されるというわけです。

ラプンツェルとゴーテルの関係において、もうひとつ思うことがあります。それは処女性です。

ゴーテルはスタビントン兄弟(声:ロン・パールマン)を言いくるめるとき、「最高の『お楽しみ』もあるわ」と言います。これはフリンに復讐させてやるということなんですけれど、最初に観たとき、処女を性的に自由にしていいよという意味かと思ったんです。さすがにそれはないんですけれども、そのシーンの直後にラプンツェルがフリンの手を癒すシーンがあります。そこで彼女は、自分の髪は切ってしまうとその力が失われるのだと言います。

こういう力は守らなくてはならない、だから自分は今まで一度も塔を出たことがなかった。
処女は守らなくてはならない、だから外へ出なかった。危険を避けるために。
そして、ゴーテルがラプンツェルの前に現れます。

「彼があんたのことを好きなわけないわ、コレだけが目当てなのよ。彼が去っても泣くんじゃありません、お母さんはぜえんぶ知っているんですからね!」

――男はあんたの身体だけが目当てなのよ、一発ヤッたら逃げていくわよ!

ラスト、フリンがラプンツェルの髪の毛を切って彼女の魔力を奪います。そして、涙によって魔力が発動します。これはおそらく彼女の一生のなかで一度きりのもの、何を意味するかは言わずもがなです。魔力は失われたけれども冠は彼女の頭の上にあるし、フリンはまだラプンツェルのそばにいる。処女でなくなったからといって逃げていくわけでもないんです。

ラプンツェルは最後、それでもゴーテルに向かって一瞬手を伸ばします。自分を束縛し続けてきた憎い母親ではあるけれども、死んでしまえとは思っていない。濃密すぎる18年間を過ごしてきた最後の瞬間、ささやかな愛情が母親に向けられるのです。

この映画を見て、自分が望んでいると思い込まされながらステージに立ち続ける少女が自分について気づきますように。そして、母親の呪縛から卒業し、本当の自分を見つけ、また、愛する人を見つけられますように。

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